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大大阪・食をめぐる景色
展示期間:2014年 1月 4日~2014年 3月31日

大阪市は大正14(1925)年の第二次市域拡張により、人口と面積で東京市を越えて日本一の大都市となりました。この時期から昭和初期にかけての大阪市は「大大阪」時代と呼ばれ、御堂筋拡張工事や地下鉄建設なども進み、大都市へと変貌を遂げます。新しく登場した百貨店には食堂ができ、中央卸売市場の開業で、市民の胃袋を支える市場も新しい時代をむかえるなど、大阪の食をめぐる様々な動きが生まれます。当館所蔵の写真や絵葉書から、そんな大大阪時代の食をめぐる景色が感じられるものを集めてみました。

大大阪記念博覧会 食料の大阪 

写真は大正14年に、市域拡張したことを記念し開催された「大大阪記念博覧会」のパビリオンの一つ「食料の大阪」の様子です。大きな人形の前にある膳の上には、食べ物の模型が展示され、大阪市民211万4千人余が1日に消費する食べ物の量などを掲示していました。さらに展示されている地図には、主要な飲食店の位置が書かれており、見た人が大阪の「食」を観光できるようになっていました。

雑喉場 

堂島米市場、天満青物市場と並んで大阪の三大市場と称された雑喉場(ざこば)魚市場の始まりは、遠く秀吉の頃までさかのぼることができます。昭和6(1931)年の中央卸売市場の開業にともなって廃止されるまで、三百数十年にわたり、活魚流通の要としての役割を果たしていました。舟の便がよかったため、多くの小魚(ざこ)を扱う魚問屋が多く集まり、そのため「ざこば」とよばれるようになったそうです。

産業日本の心臓たる大大阪を象徴する御堂筋大街路の一角、巍然として聳え立つ白亜の一大高廈(ガスビル全景) 

中央区平野町の御堂筋沿いにある「大阪ガスビル」は、大阪瓦斯(ガス)会社の本社ビルとして、昭和8(1933)年3月に完成しました。日本初の公営地下鉄が梅田-心斎橋間に開業したのはその直後です。ビルにはガス機器の展示場のほか、観劇などができるホールや食堂などがあり、娯楽施設としても一般に親しまれました。特に最上階の8階にあった「ガスビル食堂」は行列ができるほど好評だったようです。当時の喫茶室のコーヒーは15銭、ガスビル食堂のランチセットは1円でした。ちなみに当時、銀行の初任給は70円ほどでした。

堺卯楼 

料亭「堺卯楼」の平野町支店の写真です。堺卯は本店が道修町にある江戸時代から続く老舗料亭で、平野町の支店は明治19(1886)年12月に営業を開始しました。当時の新聞によると、開業にあたっては周辺企業関係者や銀行役員、新聞関係者など150人を招き、連日4日間にもわたり宴を開いたそうです。老舗料亭らしく、新聞記事には会合や講演の会場として度々名前が現れ、多くの人に利用されていたことがわかります。

FUGETSUDO 

この瀟洒な建物は、北浜でフランス料理と洋菓子などを提供していた風月堂大阪支店です。東京の米津風月堂からのれんわけされた塩谷五郎氏が大阪高麗橋で開業し、大正11 (1922)年に北浜の地に移転しました。地下1階地上3階建坪合計約164坪のコンクリート製で、趣向をこらした内装で飾られていました。

大阪松島千代崎橋 千代崎橋西詰望南 すき焼き"いろは" 

すき焼き店「いろは」は、ここ松島を本店とし、千日前など大阪市内に多数の支店を持つ人気店でした。大座敷では500人ものお客を入れることができたそうです。昭和の始め頃の飲食店についての思い出話などでも、「いちばん誰もがその名を知っていたのは「いろは」である」と、この店について語られています。

心斎橋筋大丸を望む 

写真は大正末から昭和初期頃の心斎橋筋の様子です。奥のビルには大丸のシンボルマークが見えます。呉服店から始まった大丸ですが、大正時代になると家庭用品なども手がけ、店内に食堂を新設するなど現在の百貨店に近い商売を始めます。その後、火災や大恐慌などをくぐりぬけ、昭和初期になると、心ブラを楽しむ家族で溢れるようになりました。心ブラとは、昭和初期に使われるようになった銀座の「銀ブラ(銀座をブラブラする)」にあやかった言葉です。当時の心斎橋はモダンボーイ、モダンガールと呼ばれる格好をした人々が集まるなど、流行の最先端をいく街でした。

(大阪名所)芝居映画とカフヱーの街道頓堀 

昭和4年ごろの道頓堀の様子です。元和元(1615)年に完成した道頓堀川の周辺は、地域振興策として芝居小屋が作られ、やがて歌舞伎や浄瑠璃を上演する「五座」が公認されました。これに付随する芝居茶屋なども増加し、徐々に芝居や食の街として賑わうようになります。明治末になるとカフェーの名を冠する店が登場し、すぐに大流行します。道頓堀には明治44(1911)年にカフェー・ナンバが開店し、ついでカフェー・パウリスタなどのカフェが開店します。カフェといってもお酒を出すバーも兼ねたもので、有名なカフェでは作家や芸人たちが集うサロンとしても利用されていました。

南海高島屋 地下大食堂(高島屋グリル) 

現在も難波の駅前にある高島屋は、昭和5(1930)年12月に一部が開店し、その後、昭和7(1932)年7月に地上7階地下2階の約一万坪という広大な面積で、全館がオープンしました。百貨店業界初の冷房装置が一部のフロアに設置され、「今年の避暑は高島屋で」と、多くのお客が高島屋に訪れました。
また、地下と7階の食堂のほか、3階には東西の有名店6店を集めた名物食堂ももうけられ、食通たちを喜ばせました。

食堂のリタ嬢(大阪市立天王寺動物園) 

テーブルでナイフとフォークを使い、食後に紅茶も飲んで、「ごちそうさま」。そんな芸を見せてくれるチンパンジーのリタ嬢は、昭和7(1932)年に天王寺動物園にやってきました。大変な人気者で、その芸を一目見ようと、動物園には多くの人が訪れました。自転車乗りなども上手にこなすリタ嬢の芸は、昭和9(1934)年には皇室にも献上されました。