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大阪港開港150年 水と陸が出会う場所 -安治川・天保山・築港-
展示期間:2017年 5月 1日~2017年 7月31日

水の都と呼ばれた大阪の港は、古代から海上交通や物流の拠点として発展してきました。慶応4(1868)年7月15日、鎖国を終え、海外へと門戸を開いた大阪港は、平成29(2017)年に開港150年を迎えます。それを記念して、江戸期から明治期にかけての安治川や天保山、築港をを通して見えてくる水都大阪の姿を当館所蔵の資料でご紹介します。
★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

大阪安治川口細見 

江戸時代初期までの淀川河口部は洪水がたびたび起こり、上流からの土砂が堆積して舟運にも不便をきたすことが多くありました。このため、貞享元(1684)年に幕府の命により、河村瑞賢が九条島を分断して淀川の流れを直線化し、安治川を開削しました。そのときの土砂が積み上げられて、随見(瑞賢)山(異称、波除山)ができました。また、天保2(1831)年に行われた安治川の浚渫工事「御救大浚」の際にできたのが「天保山」です。天保末期に刊行されたと推定される古地図「大阪安治川口細見」には、安治川河口付近に「ズイケン山」「天保山」が見られます。また、天保山より沖に向かって、現在の大阪市章と同じ形をした「澪標(みおつくし)」が描かれています。

天保山名所図会 

貞享元(1684)年の河村瑞賢による開削後も、安治川は上流からの土砂が堆積して川床が上がり、廻船の運航に支障をきたすようになりました。そこで、幕府は、天保2(1831)年から2年の歳月をかけて、「御救大浚(おすくいおおさらえ)」と呼ばれる大掛かりな浚渫工事を行いました。天保6(1835)年に刊行された『天保山名所図会 上』には、長い柄の鋤簾(じょれん)を使って、浅瀬の土砂を掻き寄せている人々が乗る小船の群れが描かれています。このとき浚渫された大量の土砂を積み上げてできたのが天保山です。

浪花大砂運衣裳附 

1831(天保2)年に行われた浚渫工事は、それまでに比べて最も大規模に行われました。各町から派遣された人足たちは、揃いの半纏・股引・脚絆を身に着けて、のぼりを立てて舟に分乗し、鉦や太鼓で囃し立てながら工事に参加しました。「浪花大砂運衣裳附(なにわおおすなもちいしょうつけ)」には、大浚えのときに着用された衣裳などが描かれています。祭礼のごとき当時の賑わいが伝わってきます。

菱垣新綿番船川口出帆之図 

菱垣廻船(ひがきかいせん)とは、江戸・大坂間の海運の主力となり、木綿・油・酒など、江戸の必要とする日用品を輸送した菱垣廻船問屋専属の廻船のことです。新綿番船は、その菱垣廻船の年中行事で、安治川口を出帆、浦賀到着の順番を競いました。江戸時代より、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地であった、大坂のにぎわいを伝える錦絵です。

摂津名所図会 

菱垣廻船や北前船などによる海上輸送の隆盛で、大坂では造船業が盛んになりました。
木津川の西岸にある寺島には船大工が多く住み、廻船を建造していました。『摂津名所図会 3東生郡 西成郡』収録の絵「寺島新艘船卸」には、新船の進水式の様子が描かれています。船上からは祝いの餅が撒かれ、舳先には航海の神、住吉大神へのお供えの酒樽と鯛が置かれています。船卸の日には、航海の無事と、船が富をもたらしてくれることを祈願しました。

天保山 (浪花百景) 

「浪花百景」は、幕末に大坂で活躍した3人の浮世絵師、歌川國員(うたがわくにかず)・里の家芳瀧(さとのやよしたき)・南粋亭芳雪(なんすいていよしゆき)の合作による100枚の錦絵、つまり浮世絵の多色刷り木版画です。当時の大坂の有名な風景や風物を季節感豊かに描いています。南粋亭芳雪が描いた「天保山」には、昔の水路標識であり、大阪市章ともなっている「澪標(みおつくし)」が描かれています。

安治川橋 (写真浪花百景 上編 中編) 

慶応4(1868)年7月15日、大阪港開港に際し、安治川河岸に川口運上所(税関)と川口波止場が設けられました。しかし、川口波止場は河底の浅い河川港であり、外国の大型船の出入が難しかったので、市民による築港運動が起きました。明治30(1897)年に、オランダ人技師デ・レーケが設計した第一次修築工事が天保山で始められました。

(大阪)巨船輻輳せる大阪築港の偉観 

明治30年(1897)10月、海に向かった新たな港をつくるべく本格的な築港工事が開始されました。築港事業は当時の大阪市予算の16倍という巨費を投じた大プロジェクトであり、明治36年(1903)に完成した築港大桟橋は、大阪港の関門を正面に見据え、全長455m、幅員27mというスケールで、新たな大阪のシンボルをひと目見ようと、多くの人が訪れました。

海産物問屋;大阪築港真景 

引札とは商店が開店や商品売出しを宣伝するために配る札のことで、今日のちらし、ビラにあたります。元禄(1688~1704)の頃、安売りの宣伝札を配ったことに始まるといわれおり、明治から大正初期にかけて流行し大量に発行されました。
こちらの引札は大阪の海産物問屋のものです。沖には澪標が並び、桟橋に停泊する軍艦や蒸気船・大型帆船が描かれているほか、海岸には大型倉庫や市電の線路、行き交う人々の様子なども描き込まれ、港の賑わいを伝えています。

滑稽海路名所雙六 

本来、双六(すごろく)は二人が盤を挟み勝ち負けを競う室内遊戯の一つで、インドで起こり、奈良時代には日本にも伝来していたといわれています。江戸時代には、一枚の紙の上に描かれたコマを賽の目によって動かす絵双六が盛んになり、庶民の遊びとして定着しました。また、木版摺りの技術の進歩と伴に多種多様な絵双六が刊行されるようになり、広告の一つの媒体としての広告双六も現れ、明治30~40年代から急増しました。こちらは、大阪商船株式会社のもので、双六とともに航路案内が掲載されています。