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御堂筋完成80周年
展示期間:2017年 8月 1日~2017年10月31日

昭和12(1937)年に完成した御堂筋は、今年80周年を迎えました。
「御堂筋」の名前は、「北御堂(西本願寺津村別院)」と「南御堂(東本願寺難波別院)」を繋ぐ道であったことが由来です。
「御堂筋の拡幅工事」は、第7代大阪市長、関一(せきはじめ)が打ち出した「都市大改造計画」のメイン事業でしたが、用地買収や技術上の困難、財政難など様々な障がいがあり、大正15(1926)年の着工から11年の歳月を経た、昭和12(1937)年5月11日に、御堂筋はようやく開通の日を迎えました。
完成した御堂筋は、全長約4キロメートルの直線道路で、電線を全て地下に配し、シンボルとも言えるイチョウ並木を植えた開放感のある道幅、また沿道の建物は、ビルの高さを一律百尺(約30メートル)に揃えるという百尺規制を設けたことにより規律良く揃った
美しい景観を誇っていました。完成から80周年を迎えた現在も、御堂筋は大阪を象徴するものとなっています。
★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

御堂筋拡張工事開始の淀屋橋南詰 大正十五年 

淀屋橋はもとは江戸時代の豪商、淀屋が架橋したものですが、御堂筋拡張も含む第1次都市計画事業の一環として架けかえることとなりました。淀屋橋の意匠は、大正13(1924)年に、当時としては珍しい公募により選ばれた案を骨子として設計されました。『御堂筋道路竣功記念誌』によると「一言以って蔽(おお)へばまさに豪宕(ごうこう)、その玲瓏(れいろう)たる橋燈と併せて本市中之島美観地区に輪奐(りんかん)の美を添へている。」としています。大阪はもともと東西の通りを中心とした町でしたが、大阪駅を起点として南北に通じる幹線が必要となり、これまであった淀屋橋筋を御堂筋へと拡張させました。『東区史』では、完成した当時において、地上も地下も最短距離を最短時間で完全に結ばれ、本市交通上、まさに一大エポックを画したといっても過言ではないと評しています。御堂筋といえば、イチョウ並木を連想される方も多いかもしれませんが、御堂筋の植樹帯に何を植えるかにおいて、当時主流であったプラタナス派とイチョウ派とで議論が紛糾しました。結果、橋を基点に、大阪駅前から大江橋まではプラタナス、大江橋から南はイチョウという折衷案が出されました。イチョウ並木は平成12年度、淀屋橋は平成14年度にそれぞれ大阪市指定文化財に指定されています。

(大阪名所)地下鉄高速度電車 

大阪のメインストリートである御堂筋の下には地下鉄御堂筋線が走っています。第一次世界大戦後、経済が活発化するなか、大阪市の将来を支える交通基盤づくりのために、早くも大正8(1919)年に地下鉄建設計画の調査・研究が開始されました。地下鉄工事は昭和5(1930)年に始まり昭和8(1933)年に完成、梅田-心斎橋間の3キロメートルを5分30秒で結びました。
開業初日には、初発電車に乗ろうと市民が大勢詰めかけました。写真は当時の淀屋橋駅ですが、市民からは宮殿のようだと絶賛されました。

(大阪名所)地下鉄工事 

地下鉄第一期工事として計画された梅田-心斎橋間の工事写真です。地下鉄は道路の下を走るよう計画され、道路と一体的に作られました。御堂筋拡幅のため家屋立ち退きの後、地下鉄の構造物を造り、その上を御堂筋として整備しました。
この区間は地盤が弱く、さらに堂島川・土佐堀川・長堀川の下にトンネルを通す必要があり難工事が予想されました。そのため、比較的工事が容易で、建設費も安い高架式にすべきという意見も多くありましたが、当時の大阪市長の英断により地下式となりました。現在の交通事情から考えると先見の明があったと言えるでしょう。

大阪名所 御堂筋 

御堂筋は、大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画されました。既に大正8(1919)年から調査研究が開始されていましたが、大正10(1921)年内閣で認可され、大正13(1924)年に更生第一次都市計画事業として決定しました。それまで幅5.4メートルほどであった道を、幅44メートル、全長4370メートルの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業でした。

(大阪)中之島に聳ゆる市庁舎の雄観 

明治32(1899)年の江之子島庁舎から数えて3代目の市庁舎が、大正10(1921)年に中之島公園内に竣工しました。御堂筋に面したこの建築は、鉄骨及び鉄筋コンクリート造りの地下1階地上5階のネオルネッサンス様式で、建築費は当時の貨幣価値で約350万円でした。写真左手には日本銀行大阪支店、手前には土佐堀川と淀屋橋が見えます。
行政サービス需要の増大に伴い市庁舎が手狭になり、機能が分散してしまったことや、建物の老朽化が進んだことにより、新庁舎建設が議論され、昭和61(1986)年に現在の市庁舎に建て替えられました。

御堂筋道修町北西側 昭和十年頃 

御堂筋を挟んで東西にのびる道修町(どしょうまち)は別名「くすりの町」とも呼ばれ、大手製薬会社が軒を連ねています。このように「くすりの町」として知られるようになったのは、享保7(1722)年に道修町薬種中買仲間が株仲間として組織され、全国的にさまざまな薬を提供していくようになってからだそうです。明治終わり頃からは西洋薬の製薬も始まり、第一次世界大戦により輸入が途絶えると、政府により洋薬の国産化が奨励され、これにより、薬種問屋から製薬業へと移行していきます。
また、道修町にある薬祖神(やくそじん)少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る少彦名神社は「神農(しんのう)さん」として古くから親しまれており、神農祭が行われる11月22日、23日には、張り子の虎を求める人々で賑わいます。

産業日本の心臓たる大大阪を象徴する御堂筋大街路の一角、巍然として聳え立つ白亜の一大高廈(ガスビル全景) 

中央区平野町の御堂筋沿いにある大阪ガスビルは、大阪瓦斯(ガス)会社の本社ビルとして、昭和8(1933)年3月に完成しました。日本初の公営地下鉄が梅田-心斎橋間に開業したのはその直後です。ビルにはガス機器の展示場のほか、観劇などができるホールや食堂などがあり、娯楽施設としても一般に親しまれました。ガスビルを設計したのは大阪倶楽部(クラブ)などを設計した当時関西を代表する建築家の一人、安井武雄。御堂筋のイチョウ並木に映え、アイボリー調の外壁を各層ごとに水平に区切る庇からなる外観について、村野藤吾は「都市建築の美の極致」と評しました。

東本願寺 (写真浪花百景 上編 中編) 

ここにいう東本願寺は、真宗大谷派難波別院のことで、西本願寺の津村別院の南に位置するため、津村別院を「北御堂」と呼ぶのに対し、「南御堂」と通称されています。「御堂筋」はこの両御堂に因んで命名されました。難波別院は、江戸時代中期に本堂をはじめ諸殿の再建を行い、美しい大伽藍が完成しました。しかし大正15(1926)年からの御堂筋拡張工事で、一部堂舎を移転するなど、広大な境内地が縮小を余儀なくされ、その大きさを誇った本堂は、第二次世界大戦の戦災で消失しました。
作者の長谷川貞信(初代)は、江戸後期から明治初期に活躍した浮世絵師。安堂寺町浪花橋筋の茶巾袱紗商の三男として生まれ、上田公長(こうちょう)、歌川貞升(さだます)らに学びました。初期には役者絵や美人画を描いていましたが、天保の改革で役者絵の出版・売買が禁止されたため、以降は風景画や本の挿絵などを多く手掛けました。

大阪百景 長堀高島屋/大丸/阪急百貨店/南海高島屋/三越 

御堂筋から望むことのできる百貨店「大丸」「南海高島屋」「阪急百貨店」。
「百貨店が鉄道駅の上にあったら便利だろう」。阪急電鉄の創業者である小林一三の考えで、昭和4(1929)年に梅田に阪急百貨店が設立されました。
南海高島屋が新築されたのは昭和7(1932)年。日本の百貨店業界初の全館にわたる冷房装置完備で、話題を呼んだそうです。
大丸は、享保2 (1717)年に創業し2017年に300周年を迎えますが、写真の米国人の建築家W. M.ヴォーリズの設計による心斎橋店ができたのは昭和8(1933)年のことです。
前述のガスビルも含め、これらの設立された頃は御堂筋ができあがっていく時代とも重なります。これらの建築が完成されるに従い、現在目にする御堂筋の街並の基礎が形成されていきました。

(大阪名所)大丸屋上/(大阪名所)心斎橋筋大丸 

大丸心斎橋店は、大正11(1922)年に竣工、昭和8(1933)年に御堂筋側を拡張し完成しました。同じ昭和8年に地下鉄梅田-心斎橋間が開通し、店と地下鉄の駅舎が地下で結ばれました。設計者である米国人の建築家W. M.ヴォーリズは、商業建築を手がけるのはこれが初めてで、大阪における百貨店建築としては、大正6(1917)年に堺筋に建てられた三越百貨店に次ぐものでした。しかし、大正7年にオープンした旧館はわずか1年半で焼失し、耐火耐震の鉄筋コンクリートの建物が再建されました。
全体に落ち着いた印象のクラシックな心斎橋筋側と、ネオ・ゴシック様式に基づくアール・デコ調の華麗な御堂筋側のコントラスト、幾何学的なパターンを幾重にも重ねた装飾は通りを行く人の目を楽しませました。日本を代表するアール・デコ建築のひとつで、御堂筋の景観に彩を添えています。

<主な参考文献>