Webギャラリー インターネット上のバーチャルなテーマ展示です

戻る

文楽『心中天の網島』の作品世界
展示期間:2017年11月 1日~2018年 1月31日

人形浄瑠璃文楽は、大阪で生まれ、大阪の人々に育まれ、愛されてきた伝統芸能で、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。平成20(2008)年に、ユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されました。
文楽の演目の中から近松門左衛門が書いた世話物の代表作『心中天の網島』を選び、「名残の橋尽し」と題された道行を中心に、その作品世界を当館所蔵の資料でご紹介します。
★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

竹豊故事 

大坂天王寺村の農家に生まれた竹本義太夫は、旧来の浄瑠璃流派の長所を取り入れて、新たに「義太夫節」を作り上げ、貞亨元(1684)年、大坂の道頓堀に義太夫節による人形浄瑠璃の劇場「竹本座」を旗揚げします。元禄16(1703)年、竹本義太夫の弟子が豊竹若太夫と名乗って、竹本座と同じ道頓堀に豊竹座を創立しました。
こちらは、浄瑠璃史家の一楽(いちらく)によって書かれた『竹豊故事』の中の一枚です。『竹豊故事』は、浄瑠璃の始まりから説きおこし、当代の浄瑠璃界の動静までを詳述した本です。道頓堀に竹本座と並んで豊竹座ができてから半世紀、両座の対抗のうちに浄瑠璃界の黄金期、竹豊時代がもたらされました。こちらの画像には、ひいきによって支えられた両座の様子が描かれています。

浄瑠璃評注 

江戸時代前期から中期の浄瑠璃・歌舞伎作者である近松門左衛門は、元禄16(1703)年竹本義太夫のために書いた『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2(1705)年大坂竹本座の座付作者となりました。竹本義太夫と近松門左衛門は提携して、数々の名作を生み出します。
こちらは、『浄瑠璃評注  巻之1 』の中の一枚です。穂積以貫(ほづみいかん)によって書かれたとされる近松芸術論の聞き書き「難波土産」が収録されています。この本の中には、近松門左衛門の肖像画が掲載されています。晩年の浄瑠璃執筆中の姿でしょうか。

[文楽座番付]明治十三年辰の十一月;契情小倉濃色紙,;三代記,;心中網島噺 

享保5(1720)年10月、天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女紀伊国屋小春が、網島の大長寺で心中しました。この事件を元に、近松門左衛門は世話浄瑠璃『心中天の網島』を書き上げ、同年12月、大坂竹本座で初演されました。
こちらは、明治13(1880)年11月の松島文楽座での公演の番付です。契情小倉濃色紙(けいせいおぐらのしき)、三代記、心中網島噺といった演目が見られます。

心中紙屋治兵衛 

こちらは、浄瑠璃本といわれる資料です。明治期に活躍した義太夫節の太夫で、後の名人らを育て「堀江の大師匠」とも呼ばれた五代目竹本彌太夫の遺文庫の中の1冊『紙屋治兵衞 道行・茶屋の段』より「紙屋治兵衞紀伊國小春天の網嶋 道行 名殘の橋盡」です。
浄瑠璃本には、作品全体を収めた丸本、実際に床で語る時に使用する、その段のみを書き抜いた床本、需要が多い人気曲を出版した稽古本があります。当館のコレクションとしての浄瑠璃本は、幕末から昭和期まで活躍した名人が残した蔵書で、主に天保頃から明治にかけての資料群です。本人が三味線譜を書き入れたものや、引き継いできたものなど、貴重な資料を多く収めています。平成22(2010)年1月に解散した(財)人形浄瑠璃因協会と、故人の関係者から寄贈されました。ご覧のように、特徴のある文字で書かれており、手ぬぐいで頬かむりをしている紙屋治兵衛の絵も描かれています。

浪花みやげ 

「名残の橋尽し」と題された道行は、名文中の名文として知られています。曽根崎新地の大和屋を出て、死に場所である網島の大長寺へと急ぐ小春と治兵衛の橋に託された心境が橋の名前を織り込みながら巧みに物語られていきます。
「浪華橋々繁栄見立相撲」(なにわ はしばし はんえい みたて すもう)は、見立番付等を集成した資料『浪花みやげ』の中の一枚です。見立番付とは、相撲の番付にならい、さまざまな事物に序列をつけた一覧表のことで、江戸時代から明治時代にかけて一枚摺りの読み物として売られ、庶民の間で流行しました。
「浪華橋々繁栄見立相撲」は、大坂市中における橋のランキングで、総橋数205ヶ所を紹介しています。読者には何のランキングかがわかりやすいように、中央には橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)が描かれています。「名残の橋尽し」に登場する天神橋は東の大関、難波橋は西の大関、蜆橋は西の前頭の欄に見られます。「浪華八百八橋」とうたわれ、多くの橋が架けられていた近世大坂の様子は、このような橋の見立て番付からもうかがい知ることができます。

驚天動地古今絶無大阪大火災実況図 

明治42(1909)年に刊行された『驚天動地古今絶無大阪大火災実況図』からは、火災の被害範囲がよくわかります。
明治42年7月31日未明に大阪市北区空心町(現在の東天満付近)から発火、瞬く間に西へ燃え広がり、翌日福島の町はずれで漸く鎮火しました。後に「北の大火(天満焼け)」と呼ばれる大火災でした。
「名残の橋尽し」に出てくる梅田橋、緑橋、桜橋なども焼失しました。蜆川上流部は、がれきなどで埋め立てられてしまい、下流部も大正13(1924)年に埋め立てられたので、物語の風情のまま道行をたどることはできなくなりました。
以下は「名残の橋尽し」の、はじめの部分です。曽根崎新地の大和屋を出た小春と治兵衛は、蜆川の堤づたいに梅田橋、緑橋、桜橋を経て、蜆橋の辺りまで来ます。
・・・頃は〽十月. 十五夜の、月にも見へぬ. 身の上は. 心の闇のしるしかや. 今置く霜は明日消ゆる、はかなき譬へのそれよりも、先へ消え行く、閨の内. いとしかはいと締めて寝し. 移り香も、なんと. ながれの. 蜆川. 西に見て. 朝夕渡る. この橋の天神橋はその昔. 菅丞相と申せし時、筑紫へ流され給ひしに. 君を慕ひて大宰府へ、たつた一飛び梅田橋. 跡追ひ松の緑橋. 別れを嘆き. 悲しみて、後にこがるゝ. 桜橋. 今に話を聞き渡る. ・・・

商用データベースJapanKnowledge『日本古典文学全集』75近松門左衛門集
(2)紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島

大川便覧:乗陸必携 

天保14(1843)年に刊行された『大川便覧:乗陸必携』は、京都伏見から大川流域、下流の安治川までを描いた折本で、距離、川幅、目印などがしるされた“大川乗船ビジュアルガイド”のようなものです。
江戸時代以来、天神橋・天満橋・難波橋は「浪華三大橋」と呼ばれ、親しまれてきました。橋の界隈は蔵屋敷が多く、それを取り巻く問屋街は繁栄を極めました。
「名残の橋尽し」の二人は、鍋島藩蔵屋敷へ堂島川を引き込む掘割に架かる舟入橋を経て、大川にかかる天神橋に至ります。治兵衛は、妻や子どもたちのことを心残りに思いながら天神橋を南に渡ります。
なお、文中の“八軒屋”とは、天満橋南詰めから天神橋に至る間の、伏見へ往還する三十石船の発着場のことです。

・・・これまで来れば、来るほどは、冥途の道が近づくと. 嘆けば女も縋り寄り. もうこの道が冥途かと、見交す顔も見えぬほど. 落つる涙に堀川の、橋も水にや浸るらん. 北へあゆめば. 我が宿を一目に見るも見返らず. 子供の行方、女房の. あはれも胸に押し包み. 南へ〽渡る橋柱、数も限らぬ家々を. いかに名づけて八軒屋. 誰とふし見の下り船。着かぬうちにと道急ぐ. ・・・ 

商用データベースJapanKnowledge『日本古典文学全集』75近松門左衛門集
(2)紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島

天満ばし風景 (浪花百景) 

『浪花百景』は、幕末に大坂で活躍した3人の浮世絵師、歌川國員(うたがわくにかず)・里の家芳瀧(さとのやよしたき)・南粋亭芳雪(なんすいていよしゆき)の合作による100枚の錦絵、つまり浮世絵の多色刷り木版画です。
この絵を描いた國員は生没年不詳、一珠斎、花陽楼とも称し、歌川姓を名乗りました。大坂の人で、歌川国貞(三代豊国)の弟子かともいわれていますが、詳細は不明です。
天満橋は、江戸時代には現在の谷町筋より一つ東側の筋に架けられていました。
江戸時代を通じて破損・架替えが繰り返され、明治21(1888)年、現在の位置で鉄橋となりました。
次の文で「この世を捨てて行く身にとっては、聞くのも恐ろしい天満橋」とは、「天魔」(魔王のこと。人が善事を行なったり、真理に至ろうとするのを妨げる。)と「天満橋」をかけています。

・・・この世を捨てて. 行く身には.聞くも恐ろし.天ま橋. 淀と大和の二ア川を. 一つ流れの大川や、水と魚とは連れて行く. 我も小春と二人づれ、一つ刃の三瀬川. 手向けの水に受けたやな. ・・・

商用データベースJapanKnowledge『日本古典文学全集』75近松門左衛門集
(2)紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島

京橋 (浪花百景) 

この絵を描いた芳雪(よしゆき)(1835-1879)は、南粋亭、六花園、六花亭などと称した大坂の人で、一鶯斎芳梅(いちおうさい よしうめ)の門人です。明治8(1875)年頃まで活躍しました。
大坂城の北の玄関口、京橋は京街道・大和街道の重要幹線の起点でした。夏の陣で焼失しましたが、徳川幕府は重要視して再建、将軍家光のときに幕府によって管理される十二の公儀橋の一つとなりました。
小春と治兵衛は、前項で紹介した天満橋を過ぎ、大和川にかかる京橋、鯰江川(なまずえがわ)に架かる御成橋(おなりばし)を渡って網島の大長寺にたどり着きます。

・・・何か嘆かん. この世でこそは添はずとも. 未来は. 言ふにおよばず、今度の今度の. つゝと今度のその. 先の世までも夫婦ぞや. 一つ蓮の頼みには. 一夏に一部. 夏書せし. 大慈大悲の普門品、妙法蓮華きやう橋を. 越ゆれば至る彼の岸の、玉の台にのりをへて. 仏の姿に身をなり橋. ・・・

商用データベースJapanKnowledge『日本古典文学全集』75近松門左衛門集
(2)紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島

綱島大長寺 

享保5(1720)年10月14日、天満の紙屋治兵衛と、曽根崎新地・紀の国屋の遊女の小春が心中した大長寺は、現在、大阪市都島区に移転しており、境内には比翼塚(ひよくづか)と呼ばれる小春・治兵衛の墓碑も移設されています。現在も寺宝として二人の遺書が残っているそうです。
なお、当時大長寺があった場所は、明治時代に豪商・藤田伝三郎の邸宅用地として買収され、現在は旧藤田邸跡公園となっています。

・・・手に百八の玉の緒を。涙のたまにくりまぜて、南無あみ島の大長寺。藪の外面のいさら川。流れみなぎる樋の上を。最後. 所と着きにける。

商用データベースJapanKnowledge『日本古典文学全集』75近松門左衛門集
(2)紙屋治兵衛 きいの国や小はる 心中天の網島