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近代大阪のいしずえ‐明治150年‐
展示期間:2018年 6月 1日~2018年 8月31日

幕末の動乱を経て成立した明治政府は日本を近代化すべくさまざまな改革を進めました。その影響は大阪にも及び、現代につながる大阪の基礎が築かれていきます。
幕末から明治期の近代化する大阪の姿について、当館所蔵の資料でご紹介します。
★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

[天保山御固之図] 

ペリー来航の翌年、嘉永7(1854)年9月18日、ロシアのプチャーチン提督が率いる軍艦ディアナ号が、大坂での開国交渉を求めて天保山沖に来航しました。これを受けて、大坂城代や町奉行は天保山とその周辺に警備の陣営を張りめぐらし、諸藩の協力を得て、大坂湾岸一帯の防衛をはかりました。
この状況を示したのが、「[天保山御固之図](てんぽうざんおかためのず)」です。本図には、船の配置数や、天保山に布陣した各藩の兵数の内訳と配備が記されています。
開国交渉を断られたディアナ号は、同年10月3日、天保山沖を離れ、伊豆下田港に向かいました。
ディアナ号の来航後、幕府は安政3(1856)年に安治川・木津川の河口に大砲や野戦台を備えた台場4ヶ所の建設を命じ、海防体制を強化しました。

改正増補国宝大阪全図 (大阪古地図集成 第15図) 

14代将軍徳川家茂は、文久3(1863)年3月の上洛に続いて、4月から5月にかけて大坂を訪れました。3代将軍家光以来、約230年ぶりの上洛と来坂でした。
家茂は、大坂城を拠点として大坂湾周辺の海防設備を巡視しました。大坂湾では、伝法台場(前述の安治川台場とみられます。)を訪れたことが記録に残っています。
「改正増補国宝大阪全図」は、家茂が初めて大坂にやって来た文久3(1863)年に刊行された絵図で、当時の大坂の様子を知ることができます。絵図の南西方向、安治川の河口付近に「天保山」が描かれています。この天保山や安治川の河口周辺は嘉永7(1854)年のロシア軍艦ディアナ号来航以来、大坂における幕末・維新の重要な舞台となりました。

(大阪名所)造幣局 

新政府は日本の貨幣制度の確立を目的に、明治元年(1868)4月、造幣工場設立を決定しました。五代才助(友厚)らが長崎在住の英国の商人トーマス・グラバーを通じて、閉鎖された香港造幣局の機械を購入。水利や交通の便、また広大な敷地が必要なことから建設地として選ばれたのが川崎村の旧幕府御破損奉行役所材木置場の跡地、現在の造幣局でした。同年11月、約18万平方メートル(5万6千坪)の敷地に、わが国初の洋式設備による近代的工場の建設工事が始まりました。空前の大工事にあたり、英国人建築技師のウォートルスを雇い入れて工事の設計と監督を一任し、造幣頭として赴任した井上馨らが熱心に工事を督励しました。火事や、資材の輸送船が沈没するといった事故に見舞われるなど、工事は難航しましたが、明治4(1871)年4月4日に創業式が挙行されました。創業当時の造幣局は、現在の2倍強の面積を持ち、世界最大規模のものでした。
現在、造幣局構内には明治時代のレンガ造りの西洋風建物である「造幣博物館」が併設され、造幣局が保管する貴重な貨幣などを一般公開しています。

泉布観 

泉布観は造幣局の応接所として創設された建物で、明治天皇もこの地を訪れ、外国の要人らを数多く迎えました。「泉布」は貨幣、「観」は館を意味し、明治天皇が自ら命名しました。2階建て総煉瓦造り、周囲にべランダを巡らせた「ヴェランダ・コロニアル」様式の建物は、イギリス人技師ウォートルスの設計・監督によるもので、大阪市最古の西洋建築です。また、隣接する桜宮公会堂の玄関は、造幣局鋳造所の正面玄関をそのまま移築したもので、同じくウォートルスの設計です。公会堂は現在、レストランとしても利用されています。この二つの建物は、昭和31(1956)年、国の重要文化財に指定されています。

大阪商工会議所 堂島川北岸 

明治政府による株仲間の解散の結果、大阪は商秩序の混乱が続きました。これを憂慮した五代友厚が中心となり中野梧一、藤田伝三郎、広瀬宰平らと協議、明治11年7月に大阪商法会議所設立の願書が大阪府知事に提出され、大阪府の認可を得て、同年9月に大阪商法会議所として設立されました。重要な財政経済問題についての施策を政府や大阪府に建議・報告、また同業組合の設置や貿易振興に尽力し、衰退した大阪経済の再生を図りました。
明治23年、政府が「商業会議所条例」を制定したのにともない、明治24年1月に大阪商業会議所へ改称、また昭和2年「商工会議所法」が制定されたことにより、昭和3年大阪商工会議所に改称されました。
現在、大阪商工会議所前には初代会頭五代友厚銅像が建立されています。

[大阪名所] 

慶応4(1868)年に地方官庁として西本願寺(津村別院)内に設置された大阪鎮台は、まもなく大阪裁判所と改称されて、本町橋東詰の西奉行所跡へ移り、同年、大阪裁判所は大阪府と改められました。明治7(1874)年、江之子島上之町(えのこじまかみのちょう)に泉布観に次ぐ大阪で二番目の西洋建築の大阪府庁舎が完成し、大正15(1926)年に現庁舎のある中央区大手前に移転するまで「江之子島政府」と呼ばれ、大阪府政の中心となりました。明治31年(1898)に大阪市に一般市制が施行され、初めて市役所が開庁しましたが庁舎がなく、明治32(1899)年に大阪府庁の敷地内に大阪市庁舎を新築するまでの約1年間、大阪府庁舎に間借りしていました。
『[大阪名所]』の中の一枚「大阪政府」は、大阪の文明開化を題材とした作品を数多く手がけた二世長谷川貞信によって描かれました。「必ずや将来本市は西に向つて発展」すると唱えた当時の渡辺昇知事の抱負を表すがごとく、木津川に面した西側を正面とする大阪府庁が淡い色調で清々しく描き出されています。

梅田停車場 

明治7(1874)年5月、大阪‐神戸間に鉄道が開通・開業しました。初代大阪駅である大阪停車場は、当初、堂島が候補地でしたが、西成郡第3区7番組曽根崎村(現在の梅田)に設置されました。駅舎は、木造煉瓦張、2階建て日本瓦葺の洋風建築で、付近にあった「梅田千日」と称する墓地の名をとって「梅田のすてん所(ステンショ)」として人々に親しまれました。
開業当初は、1日8往復し、片道所要時間は1時間10分、運賃は上等1円、中等60銭、下等30銭でした。米一升が4、5銭の時代にこの料金はずいぶん高価だったために、陸蒸気(おかじょうき)と「すてん所」見物で満足した人も多かったと言われています。

肥後橋南詰加島銀行(現大同生命)「大阪と博覧会」(明治三十五年刊)より 

明治5年(1872)に国立銀行条例が公布され、政府発行紙幣の消却処分などを目的として国立銀行が設立されました。しかし、設立は東京の第一国立銀行など4行にとどまり、政府紙幣の増発も続き、発行された国立銀行券はただちに兌換されるという事態により、各行とも営業困難に陥りました。政府は明治9(1876)年に条例を改正、銀行券の発行額を資本金の80%に引き上げるなどしたため、153の国立銀行が各地に設立されました。明治15(1882)年の日本銀行設立とともに銀行券の発行を同行のみに限定し、翌年には条例を改正、これまでの国立銀行を徐々に普通銀行にしていきました。明治23(1890)年、普通銀行に関する銀行条例が定められた後、民間銀行の新設も活発になり、明治34(1901)年には、日本の銀行数は1867行にも達しました。
朝ドラのモデルとなった、広岡浅子が嫁いだ、両替商・加島屋も、明治21(1888)年に加島銀行を創設しました。加島銀行は、大阪の有力銀行として近代大阪の発展に寄与しますが、昭和初期に整理されました。写真の本店は土佐堀川沿いの広岡家の本家敷地にあり、大正11年にはビルに建て替えられました。

高麗橋 (写真浪花百景 上編 中編) 

東横堀川に架かる高麗橋は、江戸時代には幕府が管理した公儀橋の一つで、大坂から諸方へ至る里程の基準として特に重要視されていました。明治3(1870)年には、大阪初の鉄橋に架け換えられ、新たな名所となりましたが、ここで描かれているのはそれ以前の木造の橋です。
作者の長谷川貞信(初代)は、江戸後期から明治初期に活躍した浮世絵師で、大坂の商家の三男として生まれ、上田公長(こうちょう)、歌川貞升(さだます)らに学びました。天保年間から役者絵で頭角を現し、後に風景画や本の挿絵などを多く手掛けました。この『写真浪花百景』は、上編三十景、中編三十景の計六十景まで出されましたが、百景全点を完成させることなく貞信はこの世を去りました。

凌雲閣北 

明治20年代になると、新しい種類の娯楽施設が次々に開設され、高所からの眺望を楽しむ展望台が人気を博しました。
こちらの画像の凌雲閣は、明治22(1889)年4月7日に大阪の北野村(現北区)に開業した遊園地、有楽園に建てられた九層の洋式高層建築です。高さは約39m、2階までは角形、8階までは八角錐台、9階が丸屋根の付いた展望台、避雷針が尖塔となっていました。
前年の明治21(1888)年7月には、今宮村(現浪速区)に開場した遊園地、有宝地に五階建て、八角形の展望台「眺望閣」が建てられました。
眺望閣は「南の五階」、凌雲閣は「北の九階」と呼ばれ、人々に親しまれました。

<主な参考文献>