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新コレクション紹介(なにわの海の時空館旧蔵資料より)(2)新春にちなんで
展示期間:2017年 1月 5日~2017年 2月28日

平成25(2013)年に閉館した「なにわの海の時空館」の収蔵品の一部は大阪市立中央図書館に移管しています。そのうち、絵図や絵葉書などの画像を、デジタルアーカイブに公開しましたので、その一部をご紹介します。
第2弾では、「浪花百景」など、新春らしい華やかな画像をピックアップしてご紹介いたします。お楽しみください。

★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

浪花百景 

『三大橋』歌川国員
大川にかかる難波橋、天神橋、天満橋は大坂の中でも最大級の橋で、浪華の三大橋と呼ばれていました。いずれも幕府が直接管理する公儀橋で、このうち天神橋が最も長く122間3尺8寸(約241.4メートル)と『地方役手鑑(じかたやくてかがみ)』に記載されています。
手前から難波橋、天神橋、天満橋、遠景に大坂城が描かれています。生駒山からの日の出が、大坂の繁栄を象徴しているかのようです。

浪花百景 

『錦城の馬場』歌川国員
大坂夏の陣ののち、大坂城は江戸幕府によって再建され、「錦城(金城)」とも呼ばれていました。稲荷の祭礼が行われる初午の日は、大手門の馬場が開放され、大きな日傘のついた茶屋も出て、凧揚げや行楽を楽しむ人々で賑わいました。

浪花百景 

『梅やしき』歌川芳瀧
現在の上本町六・七丁目あたりに「梅屋敷」と呼ばれる梅の名所がありました。文化(1804-1818)の頃に亀戸の梅屋敷(清香庵)を模してつくられたと、『摂津名所図会大成』にも紹介されています。
明治後期に、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となったとのことですが、現在は残っていません。

浪花百景 

『今宮蛭子宮』歌川芳瀧
今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西)の十日戎(とおかえびす)は、江戸時代に入ってからはじまり、元禄時代には福笹や宝恵篭(ほえかご)行列など、現在とほぼ同様の祭礼がおこなわれていたようです。現在でも、1月9日の宵戎から11日の残り福の間、毎年約100万人の商売繁盛を願う参詣客で賑わいます。

浪花百景 

『道頓堀角芝居』歌川国員
道頓堀の一帯は江戸時代も繁華街で、その南側には角の芝居(かどのしばい・角座)・中の芝居(中座)・大西の芝居(のちの浪花座)といった、大阪の代表的な劇場があり、大いに賑わっていました。
承応元(1652)年に建設された角の芝居(角座)は、大正10(1921)年に松竹合名社の手に渡り、平成20(2008)年の角座ビル閉館で消滅しましたが、平成25(2013)年にDAIHATSU MOVE 道頓堀角座が開業し、その名を残しています。

諸國名橋竒覧;摂州阿治川口天保山 

葛飾北斎による『諸国名橋奇覧』(全11枚)のうちの1枚です。天保山は、天保2(1831)年に安治川を浚渫(しゅんせつ)したときの土砂を積み上げてできた山で、「目標(めじるし)山」と命名されましたが、俗に「天保山」と呼ばれていました。松や桜が植えられ、茶店などもあり、四季折々に行楽地としてにぎわいました。『天保山名所図会』という案内書も書かれました。

[大坂岩城升屋店頭の賑ひ] 

初代が大津で米穀商を営んでいたとき、米俵から一個の升が出てきたことから、升屋と称し、商標を岩の字を升で囲む形としたのが、岩城升屋(いわきますや)の始まりです。寛文12(1672)年、3代目のとき大坂へ進出し、高麗橋1丁目に反物の店を開きました。その後急速に発展して豪商となり、奉公人が235人いたという記録も残っています。高麗橋1丁目は、豪商三井家の本拠地もあり、大店が軒を並べていました。

新景 松嶋廓の賑ひ 

松島(松嶋)遊郭は、明治2(1869)年、寺島と呼ばれていた地域(現・西区千代崎)が松島町と改称したのちにつくられました。『摂津名所図会』にも紹介されている寺島松という松の大木にちなんで、寺島の北端は松が鼻・松の鼻と呼ばれていましたので、その「松」と寺島の「島」を組み合わせて、松島と名づけられました。
桜並木のある南北の大通りは「桜筋」と呼ばれ、ひやかしの客などであふれていました。

滑稽浪花名所;全三十景 

『滑稽浪花名所』の1枚です。四天王寺で凧揚げをする人々をおもしろおかしく描いています。
作者の歌川芳梅(うたがわよしうめ)は、文政2(1819)年に生まれ、明治12(1879)年に61歳で亡くなった浮世絵師です。弘化4(1847)年江戸で歌川国芳に入門、安政4(1857)年大坂にもどり、役者絵、風景画、風俗画を描きました。