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おおさか 災害の記憶と防災の歩み
展示期間:2018年12月 1日~2019年 2月28日

近年、各地で地震や豪雨などの自然災害が数多く発生しています。本年、平30(2018)年は、大阪市でも6月に大阪北部地震、9月に台風21号に見舞われました。今回は、江戸期から昭和にかけて大阪で発生した地震・津波・火災・台風等の災害について、当館所蔵の資料でご紹介します。
今回の展示が、災害の記憶を後世に伝え、防災意識を高めるきっかけとなれば幸いです。
★展示期間終了後も「Webギャラリー一覧を見る」よりご覧いただけます。

大地震末代噺種 

幕末期の大坂は、嘉永7(1854)年6月14、15日の伊賀上野地震、同年11月4日の安政東海地震、翌5日の安政南海地震と津波によって大きな被害を被りました。地震後の11月27日に「安政」に改元されたため、安政を冠した地震名となっています。
『大地震末代噺種(題簽(だいせん):地震津浪末代噺乃種全)』は、安政東海地震、安政南海地震後に出された瓦版をまとめて冊子にしたものです。この中の一枚「大津浪末代噺種」には、11月5日夕刻の地震発生直後に大坂に来襲した津波が「丈け二丈ばかりの高坊主」として描かれています。

<翻刻文>
大津波末代噺種
十一月五日夕大津浪
突来る前に大坂の西
前垂嶋といふ処へ丈け
二丈ばかりの高坊主
出たり人々是を見て
肝を潰してアレヨアレヨと
いふうち海に入陸に
向ひ手にて水を
かける如くして姿
見へず成と
間もなく
大津波
突来る
是此変を告しならんと
後に思ひ合しける

大地震末代噺種 

嘉永7(1854)年11月5日夕刻、安政南海地震によって生じた津波は安治川や木津川の河口から入り込み、大坂市中の堀川に沿って遡上し、大坂の町に甚大な被害を与えました。
こちらの絵は前述の『大地震末代噺種(題簽(だいせん):地震津浪末代噺乃種全)』の中の一枚で、津波に押し流された大船が、避難した人々を乗せた川船に衝突し、押し潰している様子が描かれています。
安政南海地震の約半年前の嘉永7(1854)年6月に発生した伊賀上野地震の際に、大坂の人々は余震から逃れるために堀川に浮かぶ川船へと避難し、事なきを得ました。このことが、津波による犠牲者を増大させた要因となったといわれています。

[大坂大津浪図]; [嘉永七年] 

『[大坂大津浪図]』は、嘉永7(1854)年11月5日の安政南海地震によって大坂に押し寄せた津波の被害範囲を絵図で表した瓦版です。道頓堀から南、木津川から西のほぼ全域が水色に塗られ、浸水した様子がよくわかります。
安政南海地震に際して、同様の地震後の津波の被害を被った宝永4(1707)年の宝永地震の経験を活かすことができなかった当時の人々は、後世の人が同じ過ちを繰り返さないように石碑に碑文を刻みました。それが、安政2(1855)年7月に現在の大阪市浪速区幸町3丁目9番の大正橋東詰(北側)に建立された「安政大津波碑」です。この碑文には、大地震が発生した際には必ず津波が来るから、川船に乗って堀川に避難してはならないという教訓が記されています。

火之用心;大阪今昔三度の大火,;享保9年大火,天保8年大火,文久3年大火 

江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれるほど江戸は多くの火災に見舞われましたが、大阪でも未曾有の大火がありました。中でも甚大な被害をもたらしたのが、「三度の大火」です。享保9(1724)年の妙知焼けは、南堀江の尼僧、妙知の家から出火し、市中のほぼ3分の2を焼き尽くす大惨事となりました。天保8(1837)年の大塩焼けでは、大塩平八郎の乱の兵火が市街地に燃え広がり、大坂三郷の約5分の1が焼失しました。文久3(1863)年の文久の大火は、新町橋東詰から出火し、船場から上町にかけての広い地域が焼け野原となりました。
画像は文久の大火の折に出版された瓦版で、妙知焼け、大塩焼けとあわせて三度の大火の消失地域を図示し、火の用心を説いたものです。このように過去の災害の例を併せて出版するのは、大阪の瓦版の特徴です。

街廼噂 

消防法が発達していなかった江戸時代、紙と木でできた日本の家屋はひとたび火事が起こればひとたまりもありませんでした。さらに、火事場の人手不足や各々の経験不足も被害を大きくする原因となっていました。そこで、たびたび起こる大火による被害をふまえ、防火に関する触が頻繁に出されました。その中でも多くの触で述べられているのが、夜中の見回り強化です。
天保6(1835)年に出版された『浪花雑誌 街廼噂(ちまたのうわさ)』は、前年から大阪に滞在していた江戸の戯作者平亭銀渓による、二人の遊客の対話形式で記された大阪見聞記です。当時の世相を伝えるこの史料には、大阪では太鼓、江戸では拍子木を使用していた夜廻り番の姿が描かれています。

(大阪市北区未曽有ノ大火)老松町一円の焼跡 

明治42(1909)年7月31日午前4時ごろに北区空心町から出火した火災は、炎天続きと当日の疾風のため猛烈な勢いで翌日の未明まで延焼し、一昼夜で北区の大半と福島区の一部を焼き尽くしました。北の大火、あるいは天満焼けと呼ばれる大火です。この大火で、享保9(1724)年の妙知焼けと同規模である1万1300余の家が焼失しました。近代都市になり過密化が急激に進んだことで実質的な被害が大きくなり、火災の危険度は江戸時代よりはるかに増していたと考えられます。また、北区は官公署が多く、北区役所、大阪控訴院、地方裁判所、北警察署などが火炎に包まれました。この大火をきっかけに市街地防火の強化を求める世論が高まり、翌43年4月、勅令「大阪市消防規定」の発布によって東西南北の4消防署が設置され、消防は警察と分離して事務的に独立するに至りました。

プール女学校の惨骸 

平成30(2018)年9月の台風21号の記憶も新しいところですが、昭和9(1934)年9月には当時観測史上最大の「室戸台風」が大阪市を中心とする京阪神に記録的な大災害をもたらしました。『昭和大阪市史 第6巻』によると、大阪市における死者・行方不明者990名、重軽傷者1万6908名、全壊家屋821戸、流失家屋315戸、半壊家屋3415戸、浸水家屋13万8664戸に及びました。その中でも、特に被害が大きかったのは学校の被害でした。『大阪市風水害誌』によると、小学校の全壊・半壊・大破は75パーセントにあたる176校、児童死亡269名、職員死亡9人の犠牲者を出しました。中学校以上では、プール高等女学校の被害が大きく、校舎が倒壊し、17名の生徒が死亡しました。全壊した校舎はすべて木造でした。また、暴風警報が出ていたにもかかわらず、多くの児童生徒が登校していたことも犠牲者の多かった原因で、暴風の一番激しかった8時ごろは子どもたちの登校時間にあたっていました。
この後、これを教訓とし、地震・火災にも安全な鉄筋校舎の建設計画が作成されました。また、当時漁船や船舶などの海上生活のためのものであった暴風警報の規則も変更され、防災に対する意識が高まりました。
現在大阪城南西の大手門前公園にある教育塔は、この台風で亡くなった児童・生徒や教員を悼むために台風から2年後の昭和11年に建てられたものです。

瀬田川橋上に列車横倒しとなる 

昭和9(1934)年9月の「室戸台風」では、府立大阪測候所の風力計が故障するほどの強風が吹き荒れました。9月21日午前8時過ぎの推定瞬間最大風速は60m以上と言われています。ちなみに、内閣府発表による2018年の台風21号の大阪市中央区における瞬間最大風速は47.4m/sでした。
午前8時25分、東京発下関行き東海道本線急行は速度を落として運転していたところ、滋賀県大津市の瀬田川鉄橋(全長250メートル)なかばで突風に襲われ、車両が横転し大惨事となりました。台風によるこの事故で、乗客300人中175人の死傷者を出しました。
その後の復旧については、両線の中央に横転した車両を上り線上に移動し、まず下り本線を24日に開通、車両をその後石山駅に移動収容して、上り本線を30日に開通しています。

暴雨洪水落橋砲發ノ画 

明治18(1885)年の淀川大洪水は享和2年と並ぶ史上最大規模のもので、大阪府下を中心に広域的な被害をもたらしました。6月中旬の第一水害と7月上旬の第二水害により、死者不明者81名、流出戸数1749戸、浸水戸数72509戸、被災人口は約30.4万人に達しました。救民員数約7.8万人、橋流出512カ所、堤防決壊224ヵ所、生駒山地と上町台地間の河内平野の浸水面積は約180平方キロメートル、淀川下流部西区、西成区などの浸水も約36平方キロメートルに及びました。
桜ノ宮付近では大川堤防が3ヵ所で決壊し、天満橋、天神橋、難波橋南側、淀屋橋、安治川橋など大川にかかるほとんどの橋が流出、破損して南北間の通行が不能になりました。
これはその様子を伝えるかわら版です。出版許可を受けたかわら版の1枚で、7月10日に本田丁八百屋町角木村版として出版されました。縦長で、3枚の絵から構成されています。上から順に洪水下の避難民と2隻の救助和船、天神橋落橋の光景、安治川橋の爆破の様子を描いています。
安治川橋は中央部が旋回しマストの高い船でも通過できるようになっており、「磁石橋」と呼ばれていました。安治川橋自身は洪水の水圧に耐えましたが、大江橋や渡辺橋などの流木材が安治川橋の石台に引っ掛り川の流れをせき止め、さらには流されてきた船津橋が橋に押しかかったため、決壊の恐れがあり、両岸の市街地に大きな被害を与えそうになったため、軍隊の手でダイナマイトを用いて少しずつ石台が爆破され、安治川橋は姿を消しました。

澱川流域水害図 

『澱川流域水害図』は、江戸期から明治24(1891)年頃までの淀川の水害情報をまとめた資料です。中央の淀川流域図には、明治期における洪水による決壊場所とその年月日等が記載されています。この図の周囲には、明治18(1885)年7、8月の淀川大洪水と、明治24(1891)年8月の高潮による新田の堤防決壊による被害状況を描いた図版17点が配されています。また、天正年間から明治維新前までの水害年表や淀川流域の大阪府、京都府、滋賀県の河川水害表、明治18年の淀川大洪水修築の記念碑文なども書き込まれています。
被害の大きさを強調する旧来の瓦版とは異なり、正確な地図や統計を用いることによって客観性を重視した本図は、新時代の災害メディアの登場を告げているといえるでしょう。

<主な参考文献>